IMBOS 復刊いたしました。2024/03/07

当館で不定期刊行している小誌「IMBOS」は1998年に初刊いたしました。 次は1999年に続けて刊行いたしました。 美術館へ来館された方々から自由な角度から執筆をお願いいたしました。
その後2019年に25周年記念としてのvol 6 まで続いておりますがその後ちょっと停滞しています。 vol 1 では舟越 桂さんのインタビューだったり、vol 2 では草間彌生さんの当館へのメッセージを掲載させていただきました。 当初の部数が少なかったことや来館される方へ配布したりで無くなり、今日までコピー版で凌いでおりました。 開館30年を機に当時のままに復刊いたしました。
ご希望の方へ頒布しておりますのでご連絡ください。

ヨーゼフ・ボイスからのメールアート2024/03/07

 明後日から始まるヨーゼフ・ボイス展には1976年にボイスから届いた一枚のハガキが出品されます。
このハガキは若江漢字さんがドイツ滞在から帰った翌年に世界のアーティストに世界地図が印刷されたハガキを「あなたの世界観をそこに描いてください」とメッセージを入れて送ったものです。 当時は個人情報などの守りも甘く、アーティスト・ダイアリーというイタリアから出版されている芸術家名簿などが簡単に手に入る時代でした。 返信してくれたのは音楽家のシュトック・ハウゼン、ジョージ・マチューナスやソル・リビット、リチャード・ロング、等々日本人39名、海外16名でした。
なかでもボイスからのハガキはとても興味深く魅力的な表現のものでした。 世界地図に数カ所の点と古式書体のドイツ語で「Geysir」とペンで書かれ、赤黒い色をしたその文字を斜めにかざすと緑色のような光りが反射して、子供の頃に傷口に塗った赤チンキと同じですまさに赤チンキを使ったのです そして古式書体の「Geysir」は解読するのに数年かかりましたが「間欠泉」であることがわかるとボイスの考えている世界観がグーンと具体的に迫り、さすがボイスらしい表現の素晴らしさに持つ手が熱くなりました。いまでは当館の宝物になっています。

昨日は若江漢字さんのトークイベントでした。2024/03/11

 9日から始まったヨーゼフ・ボイス展にあわせ若江漢字さんによるトークイベント、2014年に当館で開催した来日30周年記念展時から10年ぶりとなるボイスについての講演会となりました。 会場いっぱいのご参加者に当館としても気持ちがこもった展覧会がより一層盛り上がりを見せてくれたように思われました。 はじめにボイスが育ったライン川西岸クレーベについて、ボイスが学んだデュッセルドルフアカデミーの教授のマタレーの作品を紹介し、ボイスがベニス・ビエンナーレに出品したトラム・ストップとの経緯などに話が及びました。
ご参加の皆さま、ご静聴ありがとうございました。
詳しくは後日HPにも上げさせていただきます。
早咲きの桜が今週いっぱいは見頃ですよ。

ボイスとの会話2024/03/17

 開催中のヨーゼフ・ボイス展には1983年にドイツ•デュッセルドルフのボイスのアトリエで取らせてもらったボイスの足型の凹型が出品されています。 当時、若江漢字さんが文化庁芸術家派遣生としてドイツに滞在中だったので7月16日に2時間ほどかけて取らせてもらった足型です。 このことはは前年11月にダライ・ラマ14世とボイスとの対談の際にボイスに直接頼み日にちは後日電話で決めたものでした。
(詳しいことは「ボイスの足型)みすず書房刊に若江漢字さんが記しています。
私も同席していて今でも忘れられないことがいくつかあります。
その日は夏の暑い日差しがボイスのアトリエの中庭に差し込んでしました。誰もが「今年のバカンスはここにゆくの」と話題の中心は夏の休暇の過ごし方でした。 忙しい日々を送るボイスだからこそきっと決まってゆく所があるのでは・・・と「この後にはどちらかへバカンスに行かれますか?」と聞いてしまったのです。すると「私はバカンスをとったことがない」との答えが返ってきました。作品に「Ich kenne kein Wochenende」「私は週末を知らない」があったのを思い出しました、しまった!!です。
「Ichi kenne kein Wochenende」 黒いトランクにはカントの本とソース

ボイスの作ったメダル2024/03/26

 当館のヨーゼフ・ボイスの常設展示室にあるガラスケースの中に石膏型と鋳ぬいた金属の小さいメダルがあります。
このメダルをデザインして作ったのがヨーゼフ・ボイスです。以前当館で展覧会をお願いした銅版画家Otto Koester さんのパートナーのChirstine Fausel さんから寄贈されました。

Fausel さんの実家は南ドイツで大きな繊維会社を営んでいて創業記念年に合わせてメダルを制作されたそうです。
Otto Koesterさんはデュッセルドルフの美術学校の教授でChirstine Fauselさんは彼の学生でした、同じ学年にはボイスも在学していました。才能溢れるボイスにChirstine Fausel さんが実家の記念メダル制作を依頼したのです。 戦後まもない頃のようですが、ドイツらしい「双頭の鷲」のシャープなデザインに当時のボイスの意識が伝わる思いがいたします。
Chirstine Fausel さんは実家の事業を継いだのですがアーティストの感覚では経営は難しくその後「Boss」という企業に売却したとご自身が話していました。